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新内節について 

1730年頃、京都で都一中という人物が、一中節という音曲を生み出します。

一中の門人であった都半中は、京都から江戸へ出てきて宮古路豊後(後の宮古路豊後掾)と改名し、豊後節をつくり上げますが、大流行した豊後節は、風紀を乱すという理由から幕府に弾圧され、江戸での演奏を禁止されてしまいます。

豊後掾は京都に戻ってしまいますが、豊後掾と共に歌舞伎芝居に出ていた門人の一人、宮古路加賀太夫(後の富士松薩摩掾)が豊後節に代わる音曲をといって富士松節をつくります。

この富士松節の門人に鶴賀若狭掾がおり、その弟子である鶴賀新内が、あまりの美声と評されて、その音曲は次第に新内節と称されるようになります。

薩摩掾と同時期に豊後節に関わっていた門人たちは、他に常磐津節、富本節、清元節といった江戸浄瑠璃を生み出しています。

新内節は、歌舞伎音楽の一つとして活動していましたが、その拠点を劇場から街中へと変化させていきます。

これにより、独自の演奏形態である新内流しが生まれます。新内流しは、三味線で新内の曲を弾きながら街中を歩くもので、宣伝と修行を兼ねていたとされ、お客様に声をかけられるとお座敷へ上がり、座って様々な曲を演奏したといいます。

文化文政の頃に大変流行したといわれており、現在では二人一組になり、本手と上調子という二つのパートの三味線を用いて、着流しに手ぬぐいをかぶり、歩き流すのが特徴となっています。

​(深川江戸資料館)
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